ネットいじめ
by damian on 8月.10, 2010, under 携帯電話とインターネット
今「トクダネ!」でネットいじめのことをやっているのですが、これは本当に深刻な事態を招くことがあります。
テレビでは米国のことをやっているのですが、すでに日本でもこうしたネットいじめが行われているのは間違いがありませんし、事実として相談を受けたことがあります。
匿名のインターネットの中では誰でもなりすましができるわけですし、気に入らない隣人が関係ない人の振りをして罵詈雑言を書き込むことだってありえるのです。
子供にインターネットを与えたくない・・・といってみても、これだけインターネットが発達した現在、どうやって接するのかを検討した方がよいと思いますし、子供の使い方を気をつけてみることが今のところできることなのかもしれません。
もちろん家庭にサーバーを構え、そこでコントロールできるようなスキルをもった保護者がいらっしゃるのでしたらいいのですが、そんな保護者ばかりではないのですから日ごろから気にすることが予防をすることになります。
ただし携帯電話でのインターネットは親の知らぬところへ勝手に行ってしまいますのでさらに注意をするべきだと考えられます。
前略プロフィールにおいても、いじめのようなことはみられますし、学校裏サイトの大きな掲示板はなくなりましたが、そのたぐいのものは立ち上がっては消えていっているため、どこになにがあるのか特定することはたいへんな困難です。
しかし仲間内ではそうした掲示板がオープンにされているわけですから、中ではなんでも意見の交換が行われるわけです。
それがネットいじめにつながることもあるということになります。
具体例はいくつもありますので、時間があるときにでも紹介できればと思います。
自分も気をつけねばと思うこと
by damian on 8月.09, 2010, under 日々思ふこと
ここ数日で行われたPTA関連イベントの情報をブログなどでみていたのですが、PTAの存在反対派であったり、構造的な革命を起こそうとしている人のPTA嫌悪というのがすさまじいと感じます。
私はPTAができること、PTAを楽しむために工夫していくことなどを考えてきたわけですし、これからもどうしていくのがいいのかを今も考えているのですが、PTAそのものの構造的欠陥とやらは逆に捉えれば重要な点とうつるのですから解釈というのはおもしろいものだと思います。
「自分がこうやってPTAに絶望したから」という理由で活動をしていらっしゃる方を否定まではしませんが、それを押し付けてしまうようなことはするべきではないと考えるわけで、それは私にもいえるのだと自分を省みる材料にしています。
自分は楽しかったがほかの人はどうなんだ?と振り返ることで、何が必要なのか、何が足りなかったのかを知ることにもなり、自分だけが楽しむことのないように気をつけるようにしています。
ただし他人の意見であっても自分が結論を出して進めることに関しては、自分が先頭を切って行動することとしていましたので(当然今もそうです)、必ず終わったあとに反省は欠かせないものです。
PTAを活用するために、一番の近道は自分がやることだと思っています。
それは会長をさせていただいた四年間で、不必要な負担はざっくりと斬りましたし(先輩たちへの調整は必要でしたが)、私の足りない部分は副会長さんをはじめとした役員の皆さんがフォローしてくれていましたので、『チーム葛飾』はある程度機能していたのではないかと、会長活動ができなくなってからの半年が経ってあらためて思っています。
もちろん今も現役の小学校、中学校のPTA会員でありますし、自分が手伝いができる範囲でPTA活動への協力をさせていただこうと思っています。
無論、役員さんや会員さんが前会長ということで引くのであれば、お手伝いをしないという方針も決めています。
以降については考えるところがあってペンディングとしました。
二児遺棄にみる社会的な異常性
by damian on 8月.03, 2010, under 日々思ふこと
これは完全に制度上の問題ではないかと考える部分が警察や児童相談所の立ち入りの限界であること、そして精神的な問題ではないかと考えるのが、こうした残念ながら最近「よく」みられるネグレクトの方向ではないかということです。
簡単にすべてを理解することはできませんが、ゆとり教育の方向にも問題があるでしょうし、端的にいえば人の痛みを理解しようとしなくなったということなのではないかと思っています。
奇麗事で「生きる力」とか「考える力」などとゆとり教育を語っていたように思いますが、どうやってもその教育方針そのものがずれていたのではないかと考えられるのと、制度上の問題が山積していたようにしか思えません。
ゆとり教育とほぼ同時期にもたらされたものは教育者に対する抑えつけで、暴力としつけを見分けられないからとすべてを拒否してしまった部分にもあるのだと思ったりもします。
手を上げるのは教育者として未熟だとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、言ってわからないことというのは子供時代にあるのだと理解をしています。
事実として自身がそうであったように感じますし、それは高校時代であってもあったことは記憶をしています。
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私たちのころと違って、今の三十代以降は貧しいという経験はほとんどないのではないかと思われます。
過去紹介しましたが、1LDKのあばら家に7人家族が住むという友人などはその例だと思っていますし、私のうちも公務員ながらも教師から地方自治体という転職をしたことやさまざまな家族の問題などがあり、恵まれたとはいい難い家庭に育ちました。
そんな家庭では当然ながら願ったものが手に入ることなどはほとんどなく、手に入ったときの喜びというのは今でも覚えているようなものがあるほどです。
しかし現在の子供はほとんどを買い与えられ、下手をすると物を与えておけばいいのだろうというような方針さえみられる家庭もあるわけで、手にする価値やありがたみというのを昔よりも知らないのではないかと思います。
ただし貧乏なのがいいことであるとか、清いなどという考え方はなく、もちろん昭和30年代や40年代のような暮らしよりも、現在の暮らしのほうが生活のレベルとしては良いとは考えますが、そのすべてが良いとは思っていません。
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そんな中育ってきた子供たちも大人になり、親となる世代となってきたわけですが、結局こうした例となる事件があまりに多くなったのではないかと考えます。
「めんどうだから」
「子供が邪魔になったから」
「相手が子供が好きじゃないから」
などといった理由で、事情でシングルとなった人が、新しい人とめぐり合った後であったり、シングルの時の疲れで子供を放置する事件があまりにも多いのではないかと考えます。
児童相談所でははっきりといいませんが、こうした可能性のある家庭を数多く抱えているようで、地域の皆さんのお手伝いをと言われた地域もあると聞いています。
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最も異常だと感じたのは、下村容疑者を「悪くない」と捉えているブログなどがあることだと思っています。
こうした教育制度などの犠牲者なのかもしれませんが、残念ながら下村容疑者は親として失格ですし、人間としても失格であるとしか言いようがありません。
食事や水を与えなければ死ぬのはわかっていたと言っているようですから、殺したといって過言ではないのです。
そうした犯罪者への「過保護」というのも現在の異常性の特徴であるとも思っています。
そりゃ事情はあるでしょうし同情すべき点もあるのかもしれませんが、少なくとも結果と環境を見る限りにおいて異常であることは認めなければなりません。
そうした点を認めてなお「こうではないのか」とやるべきだと考えるのですが、容疑者に同情する人たちはおしなべてそうしたものを認めずに同情だけをするという同情の押し売りをしているのです。
こうした問題の根幹に家庭制度というものもあるのではないかと思っているわけですが、そうした社会でありながら選択的夫婦別姓などの家庭制度をさらに壊すのではないかというものが提議されていることに恐ろしさを感じます。
現在でさえも離婚率が増えていっている中、まるで半数が離婚を経験するような米国型の家庭崩壊を想像させるような事態を引き起こしかねないと考えているのですが、もう一度結婚というのはどういうものか見直しをしなければならないのではないかと思っています。
私が言いたいのは家父長制度ということではなく、夫婦が一生添い遂げるためには何が必要なのか、子供を慈しみ育むためには優しさだけではなく厳しさも必要であるということとか、古き良き日本の伝統は守っていくべきではないかということなのです。
もちろんお灸を据えるなどの現在で言う虐待などというのはなくするべきであって、そうした部分は改善をしていき子供をより良い環境で育てていくことを考えるのが夫婦ではないかと考えるのです。
残念ながらそれでもうまくいきそうにもない場合には子供のためにも離婚をしなければならない家庭があるのは理解していますので、離婚のすべてを否定することはありませんが、離婚率が増えているのは結局結婚を安易に考えていたりするのではないかと思うのです。
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今回の事件を見ても、結果から推察するに安易に子供を産み、安易に結婚をし、安易に離婚をしているようにしか思うことができなくなっています。
もっと深い事情があるのかもしれませんが、行き着いた職業にしても、実家に頼ることができたのではないかという面においても(すでにあちらこちらで実家の追求はされているようですが・・・)、この二人の子供を育てていくことはできたのではないかと考えるのです。
今の社会にもいっぱいいいところがあるとは思っているのですが、残念ながらよくないところも増えてきたのではないかというのはそうした事件から考えられるものであって、これを異常と思わない限り当然ながらよくすることはできないと思います。
異常性を認め、改善しなければ同じことが繰り返されるだろうと考えます。
そして立ち入りなどの制度を見直さない限り、社会がこうした事件の被害者を救うことはできないのではないでしょうか。

